自分の人生において
全て自分が源である、とは
本当のことだと思います。
それは出來事の全てを
物理的に自分が発生させている
ということではないので
一般的に使われる
自己責任という言葉で表される
意味とは違いますが
何ごとも、渦中を通り抜けてみると
自分の苦手なことや、
それこそ魂が
今生より前に抱えた苦しみを
乗り越えていることに
氣付きます。
とはいえ人間
そうとわかっていれば
いつも余裕!
というわけにもいきません。
やはり
人生には波があり
晴れたビーチのような時期も
大時化(しけ)の後に
また時化が來て
「いやいやどうなってるの?」
と思う時期もある。笑
その大時化の中で
向き合うものが
とても長い時間
「当たり前」と思い、
自分を支えてきたものが
崩れていく瞬間であったり
「生きるとは何か?」
など、生きることの
根本を問うような
テーマであったりするときは
生きた心地さえしないときがあります。
生きた心地がしないまま
生きることは
とても不自然で苦しい。
生きることは続くのに
生きる意欲が
失われたままだったり
生きたいのに
生きられない人がいることも、
生きる時間が有限であることも
ちゃんとわかっていて
その理解によって
なお生きることを
大切にする自分でありたいのに
生きる喜びをすっかり
見失ってしまったりする。
そのジレンマに
毎日燃え尽きて
「今日もだめだった」
「今日も生きるがわからなかった」
と思う。
だから
「生きた心地そのもの」を求め、
燃料が枯渇しても
墜落するまで
飛び続けることもあります。
周りからは
ストイックな努力家に
見えることも
よく見ている人からは
「この人はすでに燃え尽きて
無理をしているのではないか?」
と察せられ、
心配されていることもある。
それでも当人は、
自分の状態を
何とかすることに必死で
誰が何と言ってくれても
「自分と人生を何とかするための」
燃料に変えて
あっという間に
燃やし尽くしてしまう。
そこに、知識や學びで
覆せる余地はなく
当人自身の氣付きと体感が
繋がることでしか止まれないし、
在り方を変えられることもありません。
ただ。
これも人生が深まる時に
通る段階の一つだと
私は思います。
人生が
「こうすれば、こうなる」
「こうすればうまくいく」
という方程式だけで
どうにもならなくなってくるのは
生きる≒生存する
ための學びから
何のために生まれてきたか?
人間とは何か?
生きている間にそこに目が向き
氣付き、生きる
その段階が來るからだと思います。
そしてその段階に
起こってくることや
感じることは、
魂により樣々ではないかと思う。
人によっては
「よく生きる」
なんてもっての外、
生きて延びるだけで
精一杯と感じる日々を
過ごすこともある。
少なくとも、私にはありました。
その経験をする
人生もあるのだと思います。
ただ今日を生き抜くことが
自分に出來ることなのであれば、
それをやるしかない。
生き延びるだけのことを
必死にやる段階
今日を生きることしか出來ない時に
それだけはやり続ける
その段階を
少し過ぎてからだけ、
氣付けるものがありました。
初めに書いた
「自分の人生において
全て自分が源である」
とは
常に、どんな時期や局面においても
それが自分の人生において
必ず通る段階なんだ、
自分は行くべき道を
行っているんだと理解し
人生の全ての段階に
自分で責任を持つ
ということではないでしょうか。
物理的に起こった何かの
発端が他人であれ、自然であれ
自分の人生の波の中で起こり
その最中も、
そこから先も
自分の身体を持って
自分が生きていく
そういう意味で
「人生の責任」は
自分にあると私は思います。
そして、その責任の所在が
自分であるからこそ
新しい道、新しい展開の起点も
自分であることが出來るのでは
ないでしょうか。