2026.05.23

自分のことがわからない

 

 

自分の感情を

そのまま感じることが

とても難しい

 

 

ということ自体が

悩みになっているというのを

よく聞きます。

 

 

本当は

感情を感じるという日本語が

おかしいくらいで

 

 

私たちは感情が湧いた時点で

「自分の情を感じている」のに

何故わからない感覚に

陥ってしまうのか。

 

 

良し悪しのジャッジも

同時に感じていて、

そのジャッジを優先して

生きているからです。

 

 

「この感情を何とかすればラクになる」

 

「出てこなくなればいい」

 

「またネガティブになってる」

 

「まただ、わかってるのに」

 

「いいんだよ、大丈夫だよ(唱える)」

 

これは全て

自分の感情や氣持ちではなく

ジャッジです。

 

 

最後のいいんだよ、は

唱えてネガティブを

打ち消そうとしている

 

 

つまりすぐに消すべきもの

出てくるべきでないものとして

感情を扱っていますね。

 

 

 

優先するということは、

このジャッジが正しい

生きるために必要だ

 

 

「この感情は邪魔だ」

「恥ずかしいものだ」

という評価を

正しいとみなしている、

ということです。

 

 

だから湧いた感情を

感じるどころか

押しとどめ

 

 

ジャッジの言う

正しい行動や思考へと

すぐに移ろうとします。

 

 

そのジャッジ≒評価と

感情そのものとで

ぐるぐる回っているのが、

「感情を感じるのが難しい」

という状態だと思います。

 

 

ジャッジのことを

自分の考えや氣持ちだと

誤認しているから

感情がわからない、となる。

 

 

 

だからまた

ネガティブな氣分になり

 

 

自分の感情を

受け入れる機会が來た際には

「ジャッジに氣付くこと」が

鍵となります。

 

 

氣付くことは

ジャッジから一歩

距離を置くことだからです。

 

 

距離を置くとは

「これが私の氣持ち」と

思ってしまわないこと

 

 

「自分の氣持ちを評価している」

と見抜くことです。

 

 

 

ネガティブな場面での

自分の感情は、

一番最初に湧いてきた

嫌な氣分の方です。笑

 

 

それが感情です。

その状況や誰かの言葉などに

自分は氣分を害される状態にある、

ということです。

 

 

その事実ごと、受け入れる。

 

 

「その感情」が湧くから

幸せになれない、ではない。

 

 

「その感情」が湧く状況を

誰かが作るから、でもない。

 

 

その感情が湧くという反応を

どうしてもしてしまう、

そういう状態にあることが

感情を繰り返す原因なのだから。

 

 

 

同じような状況や出來ごとなど

いくらでも起こるのが現実です。

 

 

自分以外が全員他人である世界で、

それが起こらないようにというのは、

非現実的だ。

 

 

自分が現実を創造している、とは

そういう意味ではない。

 

 

 

何度も同じ苦しみを味わい

同じ不幸な氣持ちになる

 

 

その反応の原因が

自分側にあるから、

自分側で學びに出來る。

 

 

結局、自分と向き合う、です。

 

 

そして自分と向き合う、とは

言葉以上に深いということですね。