" シンプルに向き合うと "
自分と向き合うのに
知識も専門用語も
必要ありません。
知っていると少し
スムーズになるものは
あるかもしれませんが
知識が助けになるというよりは、
経験者から話を聞いたり
向き合い方がズレたときの
軌道修正を助けてもらったりして、
実践からくる知慧を得られると
着実に、深まる方向で
向き合うことが出來る
ということです。
こと、用語については
自分と向き合うことの
足枷になる場合が多く
注意が必要だというのが、
自分が講座で見てきた
実感としてあります。
自己価値
自己否定
聞き慣れたこの言葉も
用語の一つですが
この言葉が
自分の感情の実体として
頭に響いているのかと言ったら、
違っているはずです。
例えば
「私は自己否定している」
「自己否定に悩んでいる」
と言う時
自分の感情を
そのまま感じ、
向き合っているのではなく
自分の感情を評価し
種類分けをしています。
用語の本棚に
入れているイメージですね。
自分の感情に説明がつくので
一旦、安心を得られるのも確かです。
ただ、ここで
「向き合った」
「わかった」
と思ってしまうことが
深く向き合うことを遮ります。
自分の感情の声が
言葉になり、
頭にも心にも響いて
いっぱいいっぱいに
なっているとき
もっと感情的で、幼くて
つたない言葉だったり
とても口には出せない言葉だったりと
生々しいものであるはずです。
そうでなければ、苦しくない。
人に言えないような、
自分がそんなことを考えていると
認めたくないような
そんな人間になっているとは
信じがたいような
そういう感情や言葉が
生まれてくる状態だから
身体も心も強張るほど
苦しんでいるのに
それを用語一つに
綺麗に丸められることは、
自分自身にとって
「自分に誤魔化される」こと
名前ラベルはくれるけれど
理解という中身はくれない、
肩透かしになってしまう。
けれどもただ、
自分の中のそのままの言葉を捉え
感じることが出來たら
「身体が」安心する。
氣分的になんとなく、ではなく
身体が伴わないと
人は緊張を解くことが出來ません。
精神と身体は繋がっていて、
緊張を解いていいかの判定は
身体の方が行います。
自分に対する抵抗をやめたことで
自分の内側にある矛盾が一つなくなり、
矛盾という危険に対して
警戒しなくていい状態になる。
身体が安全判定を出す。
だから、安心することが出來る。
感情を捨てたり
消したりするのではなく
感じる、認めるだけで
落ち着くのはそういうことですね。
こうして順を辿ると
用語を当てはめることが
自分と向き合うことを遮る、
という意味が
少しわかりやすいかなと思います。
自分と向き合うときに
専門用語や知識は
必要ありません。
すでに持っている知識に
囚われていないか、
それらが眼鏡になっていないか?
評価軸になっていないか?
例えばその問いも現実的で
自分の重要な部分と
向き合う入り口になると思います。
自分と向き合う中での迷いが
少しでも晴れますように。