出來事そのものと
どういう経験かは
別のことです。
その出來事が
いわゆる自業自得と呼ぶ
ものであったか
他人や状況、環境、天災など
外側に起点があったか
その違いはあれど
経験は自分の中のもの。
自分の内側で何が起こったか。
自分の内側で何を観たか。
何に氣付いたか。
それを経て何を知り、
何が知慧となり
どういう自分になったか。
どれくらい自分自身を観測し、
深く自分と向き合ったかで
氣付きの数も、質も変わる。
だから同じ出來事であっても
その後の人生への影響は
人それぞれ違ってくる。
明るさも、深さも、幸せも。
思い出すたびに
感情が荒れる火種の状態で
残っているのか。
味わった感情を
人生の履歴として受け入れ
人の感情を想像し理解するための
源泉になったか。
状況や流れを読み
乗るか分岐させるかを考えるための
検証データになったか。
これらの違いだけでも
人の感じる生き心地は
全く違うだろうと思う。
乗り越えてしまうと
同じことが起こっても
「何ともなくなる」
というのは本当です。
例えば
昔誰かに言われて傷ついたり
萎縮したりした言葉を
口にする誰かがいても
昔の感情を理解することが
完了していれば、
感情的に反応することは
なくなります。
昔のことを
思い出しもしないこともある。
けれども、昔の感情や
乗り越えるまでの時間を
もう一度経験したいかと言ったら
「遠慮します」
と思うのも自然だと思います。笑
痛かった
辛かった
その記憶は身体が覚えている。
自分にはどうしようも
なかったことなら、
どうしていいかわからない
終わりが見えない絶望も
あったかもしれない。
ただ、不思議と
その記憶があると同時に
同じことは起こらない
同じ感じ方はしない
同じ痛みにはならない
という確信を持っている。
事が同じでも
自分は同じではない、と。
それは両立することです。
そして、それが
体験を経たということ
「経験」なのかもしれません。