" 言葉から伝わる実感 "
それが言葉の重みではないかと
私は思っています。
言葉を発する人の
体験してきた段階
それぞれの段階での体感、感情
そこで得たエッセンスである知慧
知識や正しさとして
知っているだけでは
埋まらないものがある。
重みとも、密度とも言えるもの。
自己観測の回数と濃度も
要素の一つだろうと思う。
濃度のある観測は
回数に比例して深くなるから。
だから
「大丈夫だよ」
という一聞するだけなら
軽くて、優しくて、
場合によっては未來に対する
無責任を含むかもしれない言葉も
自分や物事、人と向き合って
生きてきた人が口にすると
励ましや
その場での安心を超えた
確信を感じる。
何とかする道はある
可能性がある
「自分にはそれが見えている」
「あなたはそれを見つける」
という先を行く人の先見と確信。
共感の言葉も同じです。
技術的、言語的、情緒的な共感を超えた
理解の深さがある。
「その状況、感情の経験がある
その辛さを知っているよ
責めなくていい、否定しなくていい」
というメッセージと共に
「そこを踏破した自分がここにいる」
と、現在に滞在させず
現在を歩く意味を示す。
それはいい加減に
自分と他人の体験を横並びにして
「同じだよ」と言うのとは違う。
響きも、仕組みもまるで違う。
一人一人の人生や
魂の違いを
熟知していることと
向き合い掴んできた
生きる知慧や
人間の心の乗り越え方の
両方を持っている
というふうに見える。
確信と理解で成立した
重みのある言葉は
必ずしも甘やかに
優しくはないものです。
実感ある言葉の重みは
今に停滞せず
今、自分と向き合い
自分を生きることを促す。
責めてこないのに
逃げる選択肢が消えていく。
けれどもそれは
その人のエゴ(自我)が
削られた言葉であり
生きる者として、
生きる者に対する
深い優しさで出來ている言葉だと
私は思います。