“ 向き合っていない自分を観測する "
人間はほうっておくと
他人のことばかり
見るのが通常だと思う。
特に、他人の言葉や
行動をきっかけに
ネガティブな感情が湧くと
原因は相手にある、
正すべきは相手だと思い
疑う余地も失う。
その相手が
家族やパートナーである場合
自分はこんなに
向き合っているのに
相手が向き合おうとしない、と
相手を教育し始めることや
相手から逃げる正当化に使うことも
本当に多く起こっていることが
わかりやすい実例になると思う。
生きていれば誰にでも
身に覚えがあると思います。
それくらい人間は、そうなる。
けれども
「自分と向き合う」ことを
自分に求めるのであれば
自分に起こっていることを
分解するが如く丁寧にみて、
別の位置に立つことが出來ます。
試しにこんな仮説を
持ってみてください。
「自分は、自分とも相手とも
まだ向き合えていない
状態なのかも知れない」
一つ、分解してみます。
家族やパートナーが
こんな人だから自分は辛い
自分は向き合っているのに
相手が向き合ってこない
と思う自分がいるとします。
その自分がどうすれば満足するか?
これを簡単に言うと
自分が向き合ってもらえた、
愛されている、と感じる
「言葉や行動を相手が出してくれたら」
でしょう。
これを読んでどう感じたかを
別の言葉にしない、
別の意味を持たせない。
別の物語で包まない。
そのまま、いじらない。
自分と向き合う際に
最も大切なことの一つです。
続きに行きます。
つまり自分が見ているのは、
相手が向き合っているかではなく
「自分の価値観や正義に合ったこと」を
相手がするかどうかだ。
これを読んでどう感じるか。
ということは、自分は、
相手が自分の価値観や正義に
合ったことをするかどうかの
評価判定をすることを
向き合っていると呼んでいた。
これを読んでどう感じるか。
それが「人と向き合う」だろうか?
それだけ相手の
評価判定をしていて、
自分と向き合えるだろうか?
これを読んで、どう感じるか。
今書いたことは
「これが真実です」
という指摘ではありません。
心理的な理論でも
型でもありません。
向き合う対象を「自分」に戻し
「実際に何が起きているのか」
を見ていく入り口の実例です。
私も実際に
こうして一つずつ
自分に起きていることと
向き合っています。
自分を観測していると言っても
感じていることを
細かく丁寧に感じると言っても、
やっていることは同じです。
実際に感じていること
自分の中で起きていること
自分がやっていることを
歪めない、言い換えない。
本当のことのままにする。
正しいかどうかも
自分の好き嫌いも
これが自分という信念も
スピリチュアルな意味も
今までに聞いた
自分の魂の特徴も
全て一旦、横に置き
「今の自分」一つと向き合う。
この工程を踏めるかどうかで
自分と向き合い
自分を知る早さも深さも
変わると思います。