2026.04.16

日常的な我慢と理性を

テーマに書いてみます。

 

 

 

人間も生きものの一種であり

原始的本能を持っていますね。

 

 

自分の生命を維持し

繁殖で生命を繋ごうとする

衝動に近いもの。

 

 

野生動物の世界では、

群のために子どもを犠牲にしたり

新たなボスに排除される

個体がいたりすることが通常です。

 

     

これが本能通り。

 

 

野生世界での

通常運転の一部は、

理性を持つ人間の世界では

許されていない。

 

 

愛にも理性が必要です。

 

 

原始的本能を超えた選択を

可能にするもの、というのは

理性というものの

一つの表現かも知れません。

 

 

 

けれども私たち人間は

理性を本能に

使わせている場合がある。

 

 

その一つが、

不安や恐れが実現しないよう

我慢を重ねている場合です。

 

 

無難という安全のため

必死に他人や常識に合わせる。

 

 

それが当たり前になると

我慢を理性的と

誤認することもある。

 

 

 

「合わせる」ということに

問題があるのではなく

 

 

むしろ理性主導の

適正な「合わせる」は、例えば

非常事態下での冷静さの基盤となり

助け合いを可能にしていると思います。



人を傷付けることを

相手のために避けるのもそう。

自分の伝え方や行動の順序を

広く深い視野で、

静かに考えることが出來る。

 

 

そのような場面で

必要となる我慢や忍耐と

過剰な「合わせる」による

日常的な我慢は

別のものに見えます。


 

 

過剰な「合わせる」は

理性からではなく

「この恐れは実現する」という

予測から來ているため

 

 

この我慢を重ね続けると

疲れ、消耗し、限界が來ます。

 

     

生きる意味、あるいは目的が

「恐れから逃げること」になるのを

想像すると、あまりのストレスに

限界が來るのも道理だと感じます。

 

 

 

人は生き方として

この我慢を

選んでいるわけじゃない。

 

 

我慢している者同士の間では

正しいとみなされ

賞賛される≒安全確保

となることが多く

 

 

現代社会では

その割合が過半数より

ずっと多いため、

心の負荷を無視して言うなら

効率よく成立するからです。

 

 

それゆえ

それ以外の選択肢も選び方も

見えにくくなり

体感では「それしか選べない」になる。

 

 

 

 

ただ、それしか選べない、は

固定された事実とは限らない。

 

 

 

理性を持つ人間という生きものは

物事をありのままに見て

本能や衝動のままとは

別の生き方を選択することが出來る。